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そろそろ君の手を握ってもいいかい(臨正)(thx:シュロ)

 雨の日も風の日も、寒い日も暑い日も、そうたとえ今日みたいにじめっとした空気が肌にまとわりつく曇りの日でも、素敵な女性には声をかける。これが俺の譲れないモットーだ。だから俺はなんの躊躇もせずに、目の前で立ち止まっていた足の綺麗なお姉さまに声をかけた。
「は?い、そこの美しい彼女! 超絶プロポーションだけどもしかしてモデルとかやってたりしちゃう? たとえ天気が曇りでも俺の心はいまこの瞬間シャイニングみたいな! てことでお茶でもどう?」
 いつもなら台詞を全部言い切る前にそそくさと逃げられてしまうことも少なくないのだが、珍しくこのお姉さんは最後まで聞いてくれたうえに、ゆっくりとこちらを振り返った。抜群のスタイルが目についたから声をかけたのであって顔は特に期待も何もしていなかったが、思いのほかに美人だった。長い睫が縁取る大きな瞳と少し弧を描いたパステルピンクの唇。こんな容姿なら本当にモデルをやっているのかもしれない。
「奢りならいいけど」
 勿論! と答える前にそのなんとなく鼻にかかった声に違和感を感じた。喋り方はともかく、その声は女性のものではなかった。むしろ耳に覚えのあるこの声は。
「臨也さん!?」
「アハハハ、やっぱり喋ったらばれちゃうか」
「何やってるんですかこんなところで、というよりもそんな格好で」
「ちょっとした仕事だよ。この格好はお相手さんのご要望。まぁいまはドタキャンされて暇を持て余してたんだけどね。でもまさか君に声をかけられるなんて思わなかったなぁ。最初顔見ただけじゃ俺だって気づかなかったでしょ。いやぁ化粧ってすごいねぇ」
 長い黒髪のウィッグとミニスカート、更に化粧まで要望してくるって一体どんなお相手さんだよ、と内心では突っ込んだが、極力関わりたくないので好奇心を押し殺す。
「で、どこでお茶するの」
「へっ、いや、いまの話はなかったことに」
「なかったことにしていいの?そうか君は自分から誘った女の子を平気で『なかったこと』なんかにできちゃうんだ、へぇ?」
 臨也さんの心底面白がる口調から、いまここで「なかったこと」にしたらなかったことにはならないであろうことが容易く想像できた。ここは一杯だけ付き合う方が後々のためにいいだろう。化粧ごときに騙されてすぐに気づかなかった俺の不覚を恨みたい。いや、そもそもは後ろ姿を見て声をかけたから化粧が問題ではないのだが。
「……スタバでいいすか」
「俺はどこでも構わないよ」
 さっさと行ってさっさと飲んでさっさと別れよう。そう頭の中で計画だてると足は自然と早まった。
「ちょっと」
「ぐぇっ」
 フードの端をぐいと引っ張られ、蛙が潰れたような声がでた。恨みをこめた視線を背後に向けると、臨也さんも同じような視線で俺のことを睨んでいた。
「早足で歩かないでくれる?君は知らないだろうけど、ヒールって結構歩き辛いんだよ」
 確かに実体験としては知らないけれど、知りたくもない。仕方なく臨也さんが横に並ぶのを待ってから歩調を緩めて再び歩き出す。意識をひたすらに前方にむけていたから、俺は静かに絡まる腕にすぐには気づかなかった。
「……臨也さん、なにやってんすか」
「なにって、見ての通りだけど」
「だからなんでさり気なく腕なんか組んじゃってるんですかと聞いてるんです」
「この方が自然だろう?こんな美人とタダで腕を組める機会なんかそうそうないんだから有り難く思いなよ」
「普通それ自分でいいますか」
「事実だからね」
 声も口調ももういつもの臨也さんだったが、横を見てはいけないと本能が警告している。そこにいるのは折原臨也であって折原臨也ではない、ほぼ存在しない架空人物だ。俺は女性に悪態を吐く趣味はない。その顔を意識すればおそらく臨也さんの思うツボになるだろう。

 予想通りではあるが、夕方の大手コーヒーショップには人がほどよく溢れかえっていた。注文の列に並ぶと、臨也さんはキャラメルマキアートのアイスね、と最初から決めていたような口調で述べた。
「そんな甘いの好きじゃないでしょう」
「格好に相応のものを飲んだ方が面白いと思って」
「そんな釣り合い気にしなくていいですよ。というか本当に俺に奢らせるつもりなんですね」
「奢らせるなんてそんな人聞きの悪い。俺は単に君の顔を立ててあげてるんだよ。じゃ、俺は席にいってるからよろしく」
 ヒールは歩き辛いとか何とか言っていたわりに、その足並みはすたすたと軽い。流行のトレンカが無駄な肉のない足によく似合っていて反吐がでる。
 臨也さんは外にガラス窓で面したカウンタータイプの席を選んで座っていた。いつどんな知り合いに会うか分からないこの池袋でそのチョイスは軽い嫌がらせだ。
「どうぞ」
「ありがと。それエスプレッソ?君こそ甘い方が好きだったろう」
「今日はそういう気分なんです」
「苦かったら交換してあげてもいいよ」
「余計なお世話です」
 お互い特段喋るような話題もなく、手の中で湯気のたつ容器を持て余す。隣に座る臨也さんは、彼にとっては甘ったるすぎるであろうキャラメルを黙々と飲んでいる。店内の喧騒だけが辛うじて二人を同じ空間に繋ぎとめていた。
「質問なんすけど」
「なんだい?特別にただでいいよ」
「俺とここでこうして無言でコーヒー飲んでて楽しいんですか」
「愚問だね。俺は興味のない人間に自ら関わると思うかい?」
「それは思いませんけど」
 ガラス越しに、口元に人の悪い笑みを浮かべる女性とそれに反して無表情の男子が映っている。おそらく街を歩く人から見ても決して二人が楽しんでいるようには見えないだろう。
「けど、納得いかないっていう表情だね。まぁ君にしてみればちっとも面白くないだろうから当然か。理由が欲しいかい?そうだね、理由をつけるとすれば、君は俺の周りには他にいないタイプだから興味が沸くんだよ」
「そんなことはないでしょう」
「いいや。俺のことを嫌ってくれる人や憎んでくれる人はいる。シズちゃんみたいにね。逆に俺のことを好いてくれる人もいる。でも君は俺のことを心底憎んでいるくせに、嫌いきれていない。凄く興味深いよ」
「興味、ですか」
 手の中で紙コップが僅かに形を歪めた。テーブルの上にはあくまでも男のものでありそれでも華奢と呼ばれる部類に入るであろう手と、その指先を彩る浮ついたワインレッドが見える。気持ち悪い。
「興味じゃ不服かい?もっと分かりやすく言うなら俺は君を好いている」
「あなたは全ての人を好いているでしょう」
「ああ、そうだよ。俺は人というものが好きだ」
 臨也さんは悪びれることもなく肯定した。ほらやっぱり、とため息が口をつく。
「けど、それは別に全ての個を好いているというわけじゃない。俺は個として君に興味を抱き好いているんだよ」
 ご冗談を、と声に出す前にワインレッドの爪先が手の甲に触れた。反射的に振り払って、さめた苦い苦いエスプレッソを喉奥に流し込む。ガラス越しに見た、もう架空の人物でも何でもない、ただの折原臨也が人工的なピンクの唇を釣り上げた。きもちわるい。