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121107 三十路青黄

 玄関で腰をおろしてブーツを脱ぎ終わると、そこで黄瀬は力尽きた。足元にブーツを転がしたまま、ぐったりと身体を床に預ける。頬に触れるフローリングは冷たかったが、眠気を飛ばすほどの刺激にはならなかった。もうこのまま起きたくないな。睡眠欲求に従いかけたとき、腕をぐいと引かれた。

「おら、ここで寝んな」

「……まだ起きてたんスか」

「明日は午前休みなんだよ」

「そーだっけ」

 日付感覚も曜日感覚も、最近すっかり消えてしまっている。自らのスケジュールを把握するので精一杯だ。

 腕を首に巻きつかせられ、背負うのに近い形で青峰に引き摺られる。残った気力を振り絞って、綺麗に筋肉のついた首に縋り付いた。

「うお……っぶねーな」

「青峰っち、したい。ねぇ、しよ」

 首元に顔を埋め、回した腕に力を込めて黄瀬は囁いた。今はもう何も考えたくない。ぐちゃぐちゃになった思考をぐちゃぐちゃにされることでリセットしてしまいたい。

「んな元気なら風呂入ってこい」

 精一杯の懇願は無視され、力づくで脱衣所に放り込まれた。荒っぽい手付きの癖に、寝るなよ、と念押しされて笑ってしまう。

 青峰はずるい。自分がしたいときには好きにする癖に、黄瀬がギリギリの状態でしたいと願っても聞いてくれない。もっとも、近年は無理なことをされることなどないのだが。いつの間にかそんならしくない優しさを身につけてしまった。ずるい。

 

 

 髪を乾かしてこいと一度洗面所に押し戻され、次に部屋に入るとホットミルクの入ったマグカップを手渡された。

「コーヒーがよかったっス」

「うっせ。寝らんなくなるだろ」

 そういう青峰の手にはココアの入ったマグカップが握られている。かなり前に買った色違いの物だ。ソファに身体を沈めると、じんわりと眠気が思い出された。

「今回の監督、有名だけどいい人だしやっぱり上手いんスけど、けっこう厳しいんスよ」

「ああ」

 ぽつりぽつりと口を開くと、相槌が返ってくる。昔は聞いてるんだか聞いてないんだか分からない反応だったが、今は聞いてくれているのがはっきり分かる。

「もっと、まだ足りない、もっと、て言われて」

「うん」

「でも俺もう四十手前だし、芸歴だってそこそこになるし、もうそんな新しい扉なんてねーよ、って……思っちゃったんスよね」

 思ってしまったら、そこから伸びるはずがない。ぐだぐだし始めたところで、今日はここまで、と打ち切られた。自分のせいで撮影が伸びるという経験はあまりなく、けっこう凹んでいる。

「けど監督は出来ると思うから言ってんだろ」

「本当にそーなんスかね」

「そりゃそうだろ。バスケだって、そいつの能力を超える出来ない要求はしねえ。例えばテツにダンク決めろなんて、間違っても言わねえだろ」

「まぁ、それは言わないっスね」

 明らかに無理な要求だ。しかし例えが飛躍しすぎていて、些かピンとこない。

「そういうことだろ」

「……なるほど?」

「なんで疑問形なんだよ。信じろ」

「何を?」

「自分なら出来るって」

「自信家じゃん」

「別にいいだろ」

 さすが若かったときに、俺に勝てるのは俺だけだ、なんて言っていた人のお言葉は違う。静かに笑って、足をソファの上に引き寄せた。折り畳んだ足に顔を埋めて、息を吐く。

「あー、青峰っちなんかに慰められて、俺かっこわりぃ」

「なんか、ってなんだよ」

「んー」

 曖昧な返事で青峰の文句に言葉を濁す。だって昔は、こんなじゃなかった。別に優しくされないと知っていたから、弱音なんて吐かなかった。なのに歳と共にどんどん甘やかされるものだから、つい口が緩くなる。

 言えよ、と言わせる気のない声がかけられる。髪を乱されながら、飲み干したミルクは甘く舌に残った。

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