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110804 2人で築く幸せの序章(虎兎)
半ば無理矢理におしかけたその家は、ブロンズステージにあるメゾネット式アパートだった。私用では来ることのないこのステージが少しだけ珍しくもあり、あたりをよく見回す。
「もう一度言っておくが、本当に汚いからな!」
僕に先立って家の扉の鍵をまわす虎徹さんが、そう釘をさした。酒が入っているせいか、語調が強い。
「別に構いませんよ。部屋が散らかってるであろうことぐらい、会社のデスクを見ていれば容易く想像がつきます」
「そんな想像はするな!とにかく文句言うなよ」
おじゃまします、と声をかけて扉をくぐり、虎徹さんの案内でリビングに通される。部屋のあちこちには無造作に酒瓶や物が転がり、折角のスペースを狭くみせていた。虎徹さんのにおいがする、なんてことは勿論なく、むしろアルコールが馴染んでしまったにおいがした。
「本当に汚い部屋ですね」
「しみじみ言うな!だから嫌だったんだよ……」
虎徹さんは隅の方にあったビニール袋を取ってきて、酒瓶を回収しはじめた。その間に僕は部屋をぐるりと見回す。レトロ調の家具でまとめられているが、片付けがされていないせいで折角の雰囲気が台無しだ。しかしそんな中で、綺麗な一角を見つけた。チェストの上に写真立てがいくつか並んでおり、埃をかぶっていないことから大事にされていることが分かる。何度か見たことのある娘さんの写真に、はじめて見る奥さんの写真。こういう人が好きだったのか、と冷静に分析する反面、胸がつきりと痛む。今晩だけは見ていたくなくて、写真立てをそっと伏せた。
「バニー、おまえ何飲むー?」
「まだ飲むつもりなんですか?」
中央のソファーに戻ると、瓶を何本か持って虎徹さんもやってきた。写真立てのところにいたことは気づかれていないであろうことにほっとする。
「へ?そういうつもりで来たんじゃねえの?」
「違いますよ」
「じゃあ何しに来たのよ」
「知りたいですか?」
「そりゃ、まあ」
不思議そうにしている虎徹さんの足をひっかけて、ソファーに押し倒す。どわっとかなんとか色気の欠片もない声と共に倒れた虎徹さんを上から見下ろせば、困惑した瞳と目が合う。
「あのー、バニーちゃん?」
「抱いて下さい」
虎徹さんは僕が何を言ってるのか分からないというようなきょとんとした表情を浮かべた後、ぶはっと吹き出して笑った。
「なに、実はかなり酔ってんの?めずらしーなバニーちゃんがそんな冗談言うなんて」
「酔ってませんし、冗談じゃないです」
「またまたー。だめだぞ、酒は飲んでも飲まれるな!っていうだろー?」
あっはっはと笑って全くとりあってくれない虎徹さんに、苛立ちが募る。どうして押し倒されて上に跨がられたこの状況でそんな態度でいられるのか理解できない。彼に本気だと分からせるために、頬を両手で固定して一方的にキスをした。唇を触れあわせるだけの子供みたいなキス。
「……バニーちゃん?」
ようやく虎徹さんの顔と声が酔っ払いのそれではなくなったことに満足した。
「あなたのことが好きなので抱いて下さい。そのために来ました」
「ちょっ、ちょっ、ちょーっとたんま」
僕の胸を押し返して虎徹さんが上体を起こす。逃げられないように、足には体重をかけて押さえつけたままだ。
「そりゃ例の一件以来、バニーちゃんが俺に懐いてくれてるのは知ってるし、俺だって嬉しく思ってる。でもそれはlikeであってloveじゃないだろ!?」
「いいえ、恋愛感情の意味での好きですよ」
「違う。おまえさんは20年間追ってきた仇を俺と一緒に倒したから、俺のことが好きだと勘違いしてるんだ。だから目を覚ませ!」
「違いませんよ。目なら覚めてます」
「違うって」
「僕の気持ちをあなたが否定しないで下さい!」
声を荒げれば、虎徹さんが怯んで肩を震わせた。
「今晩、一度だけでいいんです。お願いします。……もし万が一あなたの言うとおり、これが思慕だというなら寝てみれば分かります」
「あのさぁ……」
虎徹さんは何か言おうと言葉を探していたが、適切な言葉が見つからなかったのか一度口をつぐんで頭をがしがしとかいた。
「俺はバニーちゃんのことを気に入ってるし、なんだってしてやりたいと思ってる」
「だったら……」
「でも、俺は多分バニーちゃんが望むようなものはあげられねえよ」
「僕には何もいりません。ただ、あなたの心の中の特別な存在になりたいんです」
一番になりたい訳じゃない。特別になりたい。それは本心からの願いだった。だって虎徹さんの一番は左手の薬指に光る指輪を交換した人で、それはもう一生変わらない。思い出にはどう足掻いても勝てないことを、僕はよく知っている。
「虎徹さん……」
踏ん切りが付かない様子の虎徹さんに向けて、震える声でまだ呼び慣れない名前を口にする。縋るように服を掴んだ手は、わざとではなく小刻みに震えていた。先ほどまでアルコールでとろんとしていた虎徹さんの瞳は、いまは戸惑いと躊躇いとわずかな怯え、そして同情をはらんでいた。我ながら卑怯な手だと思ったが、今はただ目的さえ達成できればそれでよかった。
明朝、僕は太陽が顔を出し切るかどうかといった時間にそっと虎徹さんの家をあとにした。このまま出社してしまおうかとも考えたが、さすがに早すぎるため自宅へと戻ってきた。気怠い身体にむち打ってシャワーを浴びる。すっきりとしていく身体とは反対に、胸の内側にはどろどろとしたあらゆる感情が渦巻いていた。おそらく自分は、後悔をしているのだと思う。あんなばかなことを言い出すべきではなかったのだ。抱かれればきっと自分の気持ちは満足するのだと思い込んでいた。しかし今は虎徹さんに無理強いした罪悪感からの自己嫌悪でどうにかなってしまいそうだ。目を閉じれば、暗闇でほのかに浮かび上がる銀色のリングが脳裏に浮かんでくる。素肌に触れる熱い手の平とは異なって冷たいリングが、まるで僕を受け入れきれていない虎徹さんの心のようで酷く辛かった。虎徹さんが僕を抱いてくれたのは彼の優しさであって愛情ではないことを、あのリングから嫌というほど思い知らされる。そして写真立ての中の幸せそうな家族のことを考える。僕が両親との思い出を胸の中で大切に大切にしているように、きっと彼にとっても彼女との思い出はかけがえのないものだ。それを知っていながら、割り込むように虎徹さんの心に踏み入った。最低だ、と呟いた声はシャワーの水音に掻き消された。
あの晩から1週間がたった。あの日、朝起きたらもうバニーちゃんはいなくて、出勤しても何事もなかったかのような態度で、俺は酷く混乱した。俺がバニーの気持ちに応えていない以上、何かしらの関係になることは有り得ないのだが、それでも全く何のリアクションもないというのはけっこうこたえた。バニーがそのつもりなら俺も今まで通りに振る舞うべきと判断したが、一度歯車がずれてしまった関係はそううまくはいかなかった。1週間バニーを見ていて分かったが、あいつは何もなかったように見せかけて、実際は何かしらの焦燥感に苦しんでいるようだった。それが分かっても俺は何もしてやれなくて歯がゆさを抱えている。どうにかしなければいけないことは分かっているのだが、どうすればいいかが分からない。
今日はとうとう、ロックバイソンにまで2人とも一体どうしたんだと心配されてしまった。別にどうもしないと無理矢理に誤魔化したが、どうやら年若い連中にまで心配されているらしい。私情でヒーロー業に支障をきたすわけにはいかないというのに、自分は一体何をしているんだか。
ベッドに横になってじっとしていたが、どうにも眠れそうにない。このベッドに横たわるとあの晩のバニーの白い肌が赤く色づいていく様が脳裏に浮かび上がってきて、思春期かよと一人ごちる。ゆっくりと起き上がって、いつ買ったんだか分からない掘り出し物の煙草と携帯を手にしてベランダへ出る。真冬をすぎたとはいえ、夜分はまだかなり冷えこむ。身震いをひとつして、窓によりかかりながら煙草に火をつけた。若い頃に興味本位で少し吸っていただけの煙草は、もういつぶりか分からない。軽く吸い込んだだけで大きくむせ込んだ。
「まっず……」
呟きと共に漏れた白い息は暗闇に吸い込まれて溶けた。煙が空中にたゆたうのを何となく目で追えば、雲ひとつない冬の夜空に星が瞬いてるのが見えた。星空なんて久しぶりに見上げたかもしれない。
バニーはこんな星空を見たことがあるだろうか。多分ないんだろうなあと考えて苦笑する。見せてやりたい、と思う理由もこの気持ちの名前も俺はちゃんと知っている。知っているけれど素直に認めるにはまだ少し時間がかかりそうだ。
煙草の火を始末してから、愛用の携帯で見慣れた番号を呼び出す。夜分ではあるが、まだ起きているだろう。電話は2コールで繋がった。
「あ、バニーちゃん?おれおれ」
「こんな時間に何の用ですか。非常識ですよ」
電話に出たバニーちゃんの声はむっつりしていたが、たった2コールで出た癖にと笑いをかみ殺す。
「星が綺麗だぞ」
「……それだけですか?」
「それだけっていうなよ!シュテルンビルトでこんなに星空がくっきり見えることなんてそんなにないんだぞ」
「残念ながらこっちはそちらより都会なんで、外が明るすぎてそんなに見えませんよ」「じゃあ、うちに来るか?」
言葉は考える前に喉からするりと零れ落ちた。通話に僅かな静けさが落ちる。
「都合のいいように、とらえますよ?」
間をおいて聞こえたバニーの声は震えていた、ように思う。それがなんだかとてもおかしくて、喉奥で笑いをかみ殺しながら答えた。
「どうとでも」
本来ならじゃあまた後でとかなんとか言って通話が切れてもいいはずだったが、2人の間には沈黙の通話が続いた。お互いに何か胸に抱えるものがあって、それを言い出すタイミングを見計らおうとして、見計らえないでいる。待てどもバニーが口を開く気配はない。ベランダの手すりにおいた手に少し力をこめて、覚悟をきめる。
「なぁ、なんで何も言わずに帰ったんだよ。朝起きたらバニーちゃんの影も形もなくておじさん結構傷ついちゃったんだけど?やっぱりloveなんかじゃなかったんだろ?」
卑怯だと自覚しつつも、NOと言わせるための質問を投げかける。いつの間にこんなにも臆病になってしまったのか、自分では分からない。
「ちがいます!あの日……あの日ぼくはどうしていいか分からなくなってしまったんです」
電話口から一度深呼吸する音がはっきりときこえた。それにつられて喉をならす。
「あなたのことが好きです。それを改めてはっきりと確認しました。でも、ぼくは、あなたとあなたの家族を不幸にさせたいわけじゃないんです。あなたには実家があって母がいて娘さんだっている。それを壊してしまうのがぼくはとても、こわい」
バニーの言葉をよく咀嚼して頭に入れる。すごく自己中心的なくせにどこまでも生真面目で誰より家族を愛する彼らしい言葉だ。
「幸か不幸かは俺が決めるさ。……そうだろう?」
彼は彼の気持ちを俺が決めるなと言った。そしたら俺だって俺の気持ちは自分で決める。
「だから、幸せになろう、バニー」
電話口の向こうの言葉はよく聞き取れなかった。でもきっと、これで十分だろう。通話を終了して、手すりから身を乗り出す。早くこの宝石みたいな星空を彼と一緒に見上げたい。
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