TOP > Text > KUROKO > 青黄 > 10年じゃかなわない(青黄♀パラレル) > 3(121011)

3(121011)

 初恋はいつか、というよくある質問に黄瀬は即答することが出来る。六歳だった九月の日曜日、都内の体育館で、初めて人を好きになった。

 初恋が叶ったかどうか、は答えられない。だってまだ継続中だから。十年間ずっと、同じ人に恋をし続行けている。

 これほど一途に思い続けているのだから、そろそろ叶ったっていいじゃないか。

 

 十月に入って、夜はかなり涼しくなってきた。日中は暑いと感じる冬服も、夜になるとちょうどよくなる。魚の切り身の入ったスーパーの袋をぶら下げて、黄瀬は自宅に帰りついた。

「ただいまーっス」

「おー」

 短い廊下を抜けて、リビングのドアを開ける。声をかけても、ソファに座った青峰がこちらを向かないのはいつものことだ。

 キッチンにビニール袋を放り投げて、ソファの後ろに回り込む。青峰の顔の前に手をかざそうとして、黄瀬は咄嗟に動きを止めた。微かだけれど、青峰の髪から女物の香水が匂ったのだ。初めてではないが、いくらか久しぶりの感覚に、黄瀬の心臓はぎゅっと締め付けられた。

「っ……と、今日は焼き魚っスよー」

 言うつもりだった言葉を喉から絞り出し、黄瀬は背中を向けた。女を抱いた日はとりわけ目を合わそうとしないから、青峰が振り返ることもない。制服を着替えに行くフリをして、自室へと駆けこんだ。

 ドアを背にして、口を手のひらでぎゅうっと押さえ込む。泣くな。泣いたら青峰にばれてしまう。そしたら優しい彼を困らせることになる。別に青峰は悪いことをしているわけではない。

 ほんの一瞬だけ、俺が誕生日のとき青峰に抱いてと強請ったせいなのだろうか、という考えが浮かんだ。しかし青峰はそんな遠まわしな嫌がらせをするような人間ではない。おそらく黄瀬が気付いているということにも、気付いていない。彼はわざとああしているのではない。頭では分かっているのに、心が納得できないと叫ぶ。

 黄瀬に香水を付けない方がいいと言った青峰だったのに、甘めの香水の匂いがした。どうしてその女を選んだのか、知りたくて、知りたくない。

 家に連れ込まれるよりはきっとましだ。そう思って自分を慰めるしかない。知らないうちに、知らない女が、自分と青峰の家で、自分の知らない青峰を感じているなんて堪えられない。だって、そのシーツを洗うのは黄瀬自身なのだ。惨めにもほどがある。

 

 

*

 

 

 黄瀬は、暗記は得意ではないが、体験した事への記憶力はかなりいい方だ。初めて家で女性と遭遇してしまったときのことも、ちゃんと覚えている。

 小学一年生の夏休み前、短縮授業でいつもより早く学校が終わった日のことだった。その日青峰はオフで、黄瀬が家を出るときもまだベッドでごろごろしていた。

 黄瀬が帰宅すると、玄関には女物の靴が一足並んでいた。ヒールの高いその靴を見て、はじめ桃井が来ているのかと黄瀬は思った。しかし今より狭かった家の、あってないような廊下からリビングに向かうと、そこには知らない薄着の女がいた。ドアを開けた瞬間に目が合って、瞬間お互いに動きが止まった。水を飲んでいた女は即座に寝室へと消えた。一体何が起こっているのか分からない黄瀬は、どうしたらいいのかも分からずにリビングの入り口で立ち尽くしていた。少しすると寝室のドアから今度は、上半身裸の青峰が顔を覗かせた。黄瀬の姿を確認して、気まずそうに顔を歪める。

「火神んち行って、昼飯食わしてもらってこい」

 玄関を指差して青峰がそう言うので、黄瀬は大人しく従った。ランドセルを置いて、同じマンションにある火神の家に向かう。

 よく分からずとも子供なりにショックで、美味しい火神のご飯もいつものように喉を通らなかった。どこか具合が悪いのかと火神は心配してくれたが、何があったかは上手く言うことが出来なかった。

 しばらくすると何事もなかったように、昼ご飯を食べるため、青峰もやって来た。聞きたいことも言いたいこともあったけど、火神の前で話すのは躊躇われた。

 自宅に戻ってからようやく、黄瀬はおそるおそる口を開いた。見上げる姿がいつもより遠く感じた。

「青峰っち……」

「ん?」

「さっきの人……」

「あー、何でもねえから気にすんな」

 声をかけると青峰はいつものように振り向いた。しかし、その事については聞かれたくなさそうで、眉間に皺を寄せた。普通の子供なら怯んでしまいそうな強面だが、もう黄瀬には効かない。震える声で続きを述べる。

「あの人のこと、好きなんスか?」

「はぁ?」

 おまえ何言ってんだ。青峰はそういう調子で首を傾げた。けれども、さすがにそこまでのニュアンスは黄瀬に伝わらない。顔をくしゃりと歪ませて、黄瀬は子供特有の大きな丸い瞳に涙を湛えている。

「おれ、じゃま、っスか? ……っ、も、おれ、いらない?」

 大人は子供が泣くのを嫌う。だから泣いてしまったら、きっと青峰も疎ましく感じる。そう頭では思うのに、不安や悲しみで黄瀬は涙を止めることが出来なかった。

 予想だにしない言葉と共に泣き出した黄瀬を見て、青峰はぎょっとした。基本的に、黄瀬は泣かない。幼馴染の桃井が子供の頃は、しょっちゅう泣いていた覚えがある。しかし黄瀬が泣いたところは、一度しか見たことがない。泣き方だって、とても子供らしくない。泣くのを堪えようと、まるで泣くことが悪いことのように、涙を零す。

 子供の泣き止ませ方など、青峰が知る由もない。内心で途方に暮れながら、取り敢えず腰を落として黄瀬の背を撫でた。

「あー、おまえが思ってるようなんじゃねえから。大丈夫だから、泣くな。や、泣くのが悪いってんじゃねぇぞ。けど、泣き止め。な?」

 無茶苦茶を言っている自覚はあるが、これが今の青峰の精一杯だった。下らない女のせいで、幼い黄瀬に泣かれるのは気まずい。

「ふぇっ……おれ……おれ、まだここ、いてもへーき、っすか?」

「おー、へーきへーき。だから家に誰か知らない奴がいても、気にすんな。いいか?」

「……ん」

 いつの間にか青峰のシャツの裾を握りしめていた黄瀬は、こくりと頷いた。まだ止まりきらない涙を、青峰の大きな指が拭った。

「よし」

 ひとまずはこれで大丈夫だろう。青峰は勝手にそう判断した。火神がよくしているように、黄瀬を抱え上げて、まだ落ち着かない背中をさすってやる。本来ならもう少し小さな子供にする慰め方だが、青峰はさして気にしなかった。

 

 家で黄瀬が遭遇する女性は、毎回異なる相手だった。それが偶然なのか、いつも違うのかは黄瀬には分からない。しかしおそらく後者だろう。容姿の共通点はただ一つ、胸が大きいということ。顔の造形はてんでばらばらで、青峰の顔の好みはちっとも分からない。そもそもあるのかどうかすら怪しい。

 小学校低学年の時は律儀に毎回不安になっていたが、高学年になる頃には慣れ始めた。性的な知識がつきはじめると、今度は胸が苦しくなった。それでも中学生になれば、諦めの方が強くなっていった。

 またか。しょうがない。別に青峰っちはあの人のことが好きなわけじゃない。そう思うことで、乱れそうになる心を慰めた。

 ぐんぐん伸びた背と整った顔のおかげで、女性に会っても物怖じしない。あんたなんか別に大した女じゃない。そんな気持ちをこめて威圧感を与えれば、大抵の女性はすごすごと帰っていった。

 

 最初と同様に、最後に遭遇したときのことも黄瀬は明確に覚えている。

 中学三年生の冬、推薦で海常へ行くことが決まっていた黄瀬は比較的暇だった。世間は受験シーズンだが、せっせとモデルの仕事をこなして過ごしていた。

 黄瀬が家に帰ると、玄関には自分の物でない女物の靴があった。過去に何度もあったパターンなので、今更動揺もしない。脱衣所の鍵を確認すると、空きだった。リビングの方にいることを覚悟して、ドアを開いた。

 予想に違わず、女はキッチンで煙草をふかしていた。換気扇をまわすだけでは消しきれない臭いに、黄瀬は鼻をしかめた。

「この家、禁煙なんスけど」

 声をかけると、女はやや乱れた栗色の巻き髪を揺らして黄瀬の方を見た。塗りなおしたであろう赤い唇の端を釣り上げて笑う。

「あら、大輝くんの家にはモデルの黄瀬ちゃんがいる、っていう噂は本当だったのね」

「だったらなんスか」

 甘ったるい声で紡がれる、大輝くん、という響きに黄瀬は苛立ちを抑えられない。攻撃的な声色になるのは、いつものことだ。

「別に? 図太さに感心してるだけよ」

「……何言ってるのか分からないっスね」

 嫌味や嫉妬を向けてくる女は面倒くさい。面倒なことは嫌いなくせに、面倒な女は連れてくる青峰の趣味を疑う。黄瀬としてはこじらせるつもりはないし、ただ一刻も早くこの家から出ていってほしいだけなのだ。適当に受け流して、やり過ごそうとする。

 女は煙草を携帯灰皿でもみ消してから、黄瀬の前に立ちはばかった。身長こそ黄瀬より小さいが、挑発的な瞳で黄瀬を値踏みするように見てくる。

「そんなことも分からないの? じゃあ教えてあげるわ。あなたがここにいることで、大輝くんの幸せを奪ってる、って言ってるの!」

 もっと違う受け流し方をすればよかった。顔には出さないが、黄瀬は酷く後悔した。反論しようと口を開けたけれど、喉がカラカラで何も言葉が出てこなかった。だって、それは事実で、黄瀬自身が誰よりもよく知っていることだ。しかし黙っていれば相手の思うつぼだ。何か、何か言わなきゃ。

「勝手なこと言ってんじゃねえよ」

 張りつめた空気を打ち破ったのは、青峰の声だった。いつ寝室から出てきたのかは、背を向けていた黄瀬には分からない。無表情そうに見える顔は不機嫌だったが、青峰が来てくれたことで黄瀬は一気に安堵した。青峰は黄瀬と女の間に割り込んだので、有難く黄瀬はその後ろに隠れた。

「おまえ、もう帰れ」

 急におろおろとし始めた女に向けて、きっぱりと青峰は言い放った。女は納得いかないらしく、視線をちらちらと黄瀬に向ける。

「え、でもっ……」

「かえれ」

「……っ!」

 青峰が二度きつく言えば、さすがに女は怯んで引き下がった。黄瀬のことを睨みつつも、荷物を回収して慌ただしく家を出て行った。

 家から女の気配が消えて、ようやく黄瀬は肩の強張りが解けた。青峰も小さく溜息を吐いた。

「ったく……。おい黄瀬、あんなの真に受けんなよ」

「うん……」

 黄瀬は返事をしたが、声は思いのほか小さく、弱々しかった。真に受けるなと言われても、あの言葉だけは真実なのだ。確かに青峰の色々な可能性を自分が潰している。それなのに青峰も他の大人たちも、黄瀬がいなければよかったのに、なんて冗談でも一度たりとて言ったことはない。その優しさが嬉しいし好きだけれど、かといって黄瀬はその優しさに甘んじるつもりも毛頭ない。

「はー」

 再び溜息を吐いて、青峰はぐしゃぐしゃと黄色い頭をかき回した。こんなに乱暴に撫でるといつもは文句の一つ二つ飛んでくるのだが、今は借りてきた猫のように大人しくなっている。状態としては猫というよりも、耳や尻尾がしょんぼりと垂れた犬に近い。青峰がどんなに否定しても、黄瀬は自分の存在が迷惑だと信じて疑わない。考えを否定できないのであれば、せめてなるべくそんなことを考えずに暮らせるようにしてやるしかない。それを掻き乱したあの女に腹が立つが、そもそもの元凶は自分自身だ。舌打ちしたい気持ちを堪え、ささやかな反省を心に留めた。

 

 

*

 

 

 いつもと同じように作った夕飯は全然おいしくなくて、黄瀬は焼き魚を食べながらずっと小骨が喉につっかえているようだった。それでも普通を装って黙々と食べれば、青峰は何も気付かない。敏い黒子などだったらおそらく様子がおかしいとばれていた。こういうとき青峰の鈍さが有難くて、苦しい。

 食事の後もお腹がぐるぐるとしていて、胃が落ち着かなかった。おそらく生理のせいでもある。こんなときに生理だなんて、本当についていない。ちょっと気持ちが揺れるだけで身体も心もぐずぐずになって、酷く不安定になる。

 キッチンを片付けてから、夜のドラマを見ている青峰の元に戻った。青峰がどっかりと座っているソファではなく、その下のラグに腰をおろして、黄瀬は頭を青峰の足とソファの両方に預けた。ズボン越しにじんわりと伝わってくる体温が気持ちいい。

「きせー?」

 無意識に黄瀬が甘えたいとき、黙って寄り添ってくる癖を青峰は知っている。どうした、とは聞かずに頭に手をおいて名前を呼んだ。

「んーん」

 触れている青峰に分かるくらいの微かな動きで黄瀬は頭を横に振り、何でもないのだと主張した。この温かい手の平で触ってもらえる女性がいるのだと思うと、悲しくて泣いてしまいたくなる。

 いつもと違って、生理のときだけはこうしてくっついても怒られない。別に敢えて生理だと知らせているわけではないのだが、野生の勘のようなもので分かるらしい。

 初めてなったときには散々ぐずって、青峰を困らせた。黄瀬はずっと青峰に憧れて、青峰みたいになりたいと思っていた。だから中学にあがってしばらくしてから初潮が来たとき、自分は女で青峰みたいにはなれないのだと思い知らされて、ひどくショックを受けた。別に男になりたかったわけではないが、女にもなりたくなかった。真っ青な顔で初潮が来たことを青峰に告げると、焦った青峰は桃井を呼んで、桃井が全部面倒を見てくれた。自分でも何がそんなに悲しかったのかよく分からないが、とにかく涙が止まらなかった。青峰に縋りついて、いやだ、胸もいらない、男の子になりたい、と無茶苦茶を言って泣き続けた。胸はある方がいいだろ、と青峰らしい下手くそな慰めを受けたことを覚えている。泣き疲れて眠ってしまうまで、青峰は根気よく黄瀬の背を撫で続けてくれた。

 そのせいか、バスケのこと以外には無関心な青峰が、この間だけは心配して優しくしてくれる。でももう、その優しさだけでは黄瀬は物足りなくなっていた。

 

 何でも許される、とまではいかないが、大抵のことは許される。それに甘えて、夜には青峰のベッドに潜り込むのが恒例となっていた。日本人離れした大きな身体を伸ばして眠れるように、青峰はダブルベッドを使っている。おかげで身長はあるが細身の黄瀬が潜り込んでも、狭いということはない。

 青峰は今にも眠りそうな瞳だったが、黄瀬に布団をかけてくれた。どうして今の幸せに満足できないんだろうと、黄瀬は悲しくなる。生理のときに一人で眠ると、この後ろ向きの思考が際限なく溢れ出してしまう。だから黄瀬は青峰に寄り添って、一番安心する体温を感じて眠りにつくのだ。明日の朝はちゃんと笑えますように、と祈りながら。

 

Tag:青黄♀