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4(121102)

 頭痛が痛い。

 国語の苦手な俺でも、さすがにその用法が間違っていると分かっている。しかし、今の気分を言葉で表すならそれがぴったりだ。

 青色の制服に身を包んだ少女は、真剣な眼差しで俺をじっと見つめている。さて、どうしたものか。

 

 少女もとい黄瀬の面倒を見ている、いや正確には面倒を見てもらっている方かもしれないが、とにかく一緒に暮らしている青峰は、先日から遠征で西の方へ行っている。一年前、つまり黄瀬が中学生のうちは、青峰が家にいない間は我が家で預かった。俺も遠征でいたりいなかったりだが、少なくとも黒子がいたからだ。しかし高校にあがってからは、黄瀬がもう子供じゃないから平気だと言い張った。多少の不安はあったが、黄瀬が元来しっかりしていることと、マンション自体のセキュリティもしっかりしていることから、自宅で留守番するようになった。それでも近所なんだし、普段と同じようにいつでも来ていいと言ってあった。だから、今日黄瀬が家に来たいとメールしてきたとき、俺は単純に喜んだ。ちょうど俺はオフだったし、腕によりをかけて好物でも作ってやろうと意気込んでいた。

 部活も仕事も休みだという黄瀬は、夕方の早いうちに家にやってきた。黒子はまだ仕事から帰っておらず、二人きりだがそんなことを気にする間柄でもない。用意していたお菓子と黄瀬が好きな銘柄のミネラルウォーターでもてなした。しかしソファーに腰掛けた黄瀬はそれには手をつけず、緊張した面持ちで切り出した。

「火神っち、ひとつお願いがあるんスけど」

「ん、珍しいな。どうした?」

 黄瀬は昔から、わがままは勿論、願い事も言わない子供だった。迷惑をかけることを酷く恐れていて、希望を聞けば答えたが、自ら言い出すようなことは滅多になかった。だから自分から言い出せるようになったことが喜ばしく、俺に出来ることなら何でもしてやりたいと思った。僅かに言うのを躊躇う黄瀬を、優しく促してやる。そして小さな口から発せられたのは、とんでもない言葉だった。

「あの……俺のこと、抱いて欲しいっス!」

 言葉が理解出来ず、思考がフリーズした。仄かに頬を染めた黄瀬が、金色に光る丸い瞳で見上げてくる。目に映る小さな頃から知っている少女と、耳にしたぶっ飛んだ発言がイコールで結びつかない。無理矢理に好意的な解釈をしようと、頭が働き出す。

「えー……と、ハグ?」

「じゃなくて! 惚けるのはやめて欲しいっス」

 俺としては、惚けたつもりは毛頭ない。むしろ、出来れば黄瀬に惚けてもらいたいくらいだ。残念ながら、考えたくない方の意味で言われた言葉らしい。無意識に頭を抑えた。冒頭に戻る。

 

 黄瀬はわがままを滅多に言わないかわりに、一度言い出すとなかなか頑固だ。俺は密かに、黒子に似たのではないのかと思っている。

 一番正しい対処法を探そうとして、諦めた。おそらく黒子ならこういうときに上手くどうにかするのだろうけど、俺なりの対処しかできない。

「黄瀬、」

「は……いっ! た!!」

 返事をしようとした黄瀬に、素早くデコピンをした。勿論ちょっと弾く程度に加減したが、黄瀬は額を押さえ、涙目で見上げてくる。

「もしかして、ダメなんスか!?」

「もしかしなくてもダメに決まってんだろ!!」

「なんで!? 黒子っちがいるから? 俺は好みじゃない? それとも火神っちも実は巨乳好きなんスか? ……俺が年下で子供だから?」

 まくしたてるように喋る黄瀬を手で制して、取り敢えずおとなしくさせる。思いつくままに並べられた理由は、耳が痛かったり頭が痛かったりだ。一番最後は黄瀬自身が最も気にしていることなのだろう。でも今の問題はそこではない。

「なんで、ってのは俺の方が聞きてえよ。おまえが好きなのは青峰だろうが」

 三ヶ月ほど前から黄瀬が青峰に猛烈にアタックしていて、青峰が頭を抱えていることはよく知っている。それが何故、俺に矛先が向いてしまったのか。中立の立場として静観していたが、さすがに今度ばかりは青峰に同情せずにいられない。

「それはそうなんスけど、だって……」

 言いにくそうに、言葉をそこで一度区切った。多分、俺にとってもあまりよくない理由なのだろう。

「青峰っちが、処女なんてめんどいだけ、って言うから……」

「おまえ、ばかだろ」

「えぇ!? 火神っちまでひどいス! なんで青峰っちみたいなこと言うんスか!?」

 何も分かってない黄瀬に呆れて大きく溜息を吐き出すと、びくりと震えて口を閉じた。この場合ばかには青峰も含まれるが、それは言わないでおく。どうして自ら話が拗れるようなことを口にするんだ、あのばかは。青峰への愚痴はひとまず、今の問題は黄瀬だ。

「青峰が何を言ったかは知らねえけど、だからって、そうじゃなくなれば抱いてもらえるわけじゃねえだろ。つか、そんなことしたら絶対怒られんぞ」

「うー……」

 俺の言葉に反論できない黄瀬は、唇を歪めて、眉を八の字にしている。これくらいのことは、黄瀬だって分かっているはずだ。

「大体それ言ったのだって、酔ってるときかなんかだろ」

「え、なんで分かるんスか!?」

「まー、そりゃなんとなく。……おまえが青峰のこと好きなのは十分知ってっけど、ここんとこ何をそんな焦ってんだよ」

「焦ってなんか……」

 聞くと、金色の目が泳いだ。昔から親しい人には嘘のつけない性格だ。カメラの前ではあんなに見事に表情を操るのに、こういうときは分かりやすく表情に出る。

「おまえなりに何か考えてんだろ? けど、空回ってちゃ意味ねーぞ」

「分かってるっス」

「今日だって、俺だったからよかったけどよ……俺じゃなきゃうっかり食われてんぞ。おまえ可愛いんだしさ、もっと自覚もてよ」

 こんな危うい行動をされては、見守る側は気が気ではない。しっかりしていると見せかけて、無防備なところがあるから心配だ。

 俺の真剣さに反して、何故か黄瀬は俯いて頬を赤くした。

「おい、何で照れてんだ」

「や、可愛いってあんまり言われないから、つい」

「は? むしろ散々言われてるんじゃねえの」

「そりゃ他人からは言われるっスけど、知り合いからは全然……言ってくれるのは桃っちくらいっスよ」

 言われてみれば確かに、黄瀬のことを素直に褒める人は周りにあまりいないかもしれない。青峰は言わずもがなあんなだし、黒子も基本的には辛辣で、忘れた頃に遠まわしに褒めるタイプだ。他のキセキの面々とも青峰を通して多少の交流があるようだが、普通に褒めそうな奴はまずいない。海常の先輩も容赦がないと言っていたから、そういう感じの扱いをされているのだろう。

「あー、あと一個気になるんだが、何で俺だったんだ?」

「そうっスね……とりあえず黒子っちに言ったら怒られるし」

「俺だって怒るぞ」

「ごめんなさいっス……。緑間っちは潔癖そうだし、高尾っちには上手くあしらわれそうだし、紫原っちと赤司っちは単にいるところが遠いでしょ。笠松先輩は悪くないけど、そもそもは女の子苦手だし 童貞だし無理かなって。まあ他の先輩も色々ちょっと? モデルの方の知り合いは後々面倒になったらやだなーって。でも火神っちなら優しくしてくれそうだし、俺火神っちのことも大好きだし、あと……その、青峰っちと体格似てるし」

 ぺらぺらとよく回る口は、最後だけ尻つぼみになった。怒った? と小さな声で聞かれ、溜息が漏れる。こんな不安そうで申し訳なさそうな顔をされてしまうと、怒るものも怒れない。

「怒らねーけど、やっぱおまえばかだなとは思った。もっとちゃんとさ、青峰と話し合えよ。好きとか結婚したいとか、そういうアタックじゃなくて、その理由みたいなの、あんだろ」

「りゆう……。ね、このこと青峰っちに言わないで欲しいんスけど」

「や、言わねえと解決しないだろ。おまえのこと怒んなって言っとくから」

「火神っちぃ……」

「んな顔してもだめだって」

 まるで捨てられそうな犬の顔だ。俺はどちらかといえば拾った犬の面倒を見ている気分なのだが、上手く噛み合わない。

「せ、せめて黒子っちには黙っててほしいっス」

「いや、俺と青峰が知って黒子に伝わらないわけねぇだろ」

「……そうっスよねえ」

 小さく溜息を吐いて、黄瀬はすっかりぬるくなったミネラルウォーターに手を伸ばした。

 

 

 

 広めのキッチンがある家を選んだおかげで、黄瀬と俺が並んでキッチンに立っても窮屈さは感じない。夕飯は話し合った結果、冬の定番である鍋をすることになった。ストレスを発散するかのように次々と黄瀬に切られていく具材を鍋に放り込んでいくだけの簡単な役割だ。黄瀬はてきぱきと手を動かしながら、先程から青峰の愚痴を零している。

「俺が何言っても、ないわーの一言で片付けちゃうんスよ!? 酷くないっスか!?」

「あー、まぁそいうい奴だよな」

 酷いと思うなら青峰なんてやめた方がいい。しかしこの場合は全て酷いの前に、こんなに好きなのに、という隠された一言があるから厄介だ。それで黄瀬の気が済むなら、と適当に相槌を打って聞いてやる。

「それで俺に、誰か俺のこと好きな人と付き合えばいいじゃん、って言うんスよ。そりゃ俺のこと好いてくれる人はいるけど、俺が好きじゃなきゃ意味ないし。青峰っちは好かれてるなら十分だろ、って言う癖に、俺じゃダメとも言うし。火神っちは、自分が好きなのと、好かれるのとだったら、どっちがいいっスか?」

「どっちが、って、それは両方ねぇと成立しないんじゃねぇの」

「そりゃそうなんスけどー」

 具材を全て切り終わった黄瀬が、大きく溜息を吐いた。そんなことは分かっていると言いたげに、頬を膨らませる。

「大体、昔の母さんがオッケーで、なんで俺じゃダメなんスか!」

「や、そこは別だろ……まさかそれ、あいつにも言ったのかよ?」

「言ったっス。そしたら結構な力で頭はたかれて、酷いっスよね!?」

「まー、実際叩くのはアレだけど、叩きたくなる気持ちは分かるわ」

 別に青峰は昔抱いた女の娘として黄瀬を見ている訳じゃない。仮にも自分が育ててきた子供として、黄瀬を黄瀬として見ている。それなのに黄瀬にそんな話を持ち出されては、たまったもんじゃないだろう。

「えー、なんでっスか!」

「なんでっつわれてもなぁ……」

 それを上手く黄瀬に説明出来るほど、俺は話が上手くない。憤る黄瀬をなんとか宥めようとしていると、黒子が帰ってきた。

 

 背に隠れて言わないでと懇願する黄瀬を無視し、黒子に端的に事実を伝えると、予想通りに黒子は眉を吊り上げた。怯える黄瀬をリビングのカーペットに正座させ、「僕は黄瀬くんをそんな風に育てた覚えはありません」からはじまり、長い説教が始まった。内容は俺が言ったものと大差なかったが、一つ一つの話が長い。物理的な身長だけでいうと黄瀬は黒子を僅かに抜いているのだが、縮こまる黄瀬の方がずっと小さく見えた。黒子は耳の痛くなる事実を淡々とあげて叱るタイプなので、少しするとすっかり黄瀬もしょんぼりしてしまった。話が過去のあれこれにまで及ぼうとしたところで、子犬のような瞳で黄瀬にヘルプを求められ、鍋も冷めてしまうからと話を遮った。言いたいことは言ったらしい黒子はあっさり怒りを鎮め、いつも通りの空気で鍋を囲むことが出来た。

 別に一人で平気という黄瀬を家まで送り届けて、帰り道に携帯を取り出した。向こうが自由時間かどうかは分からないが、取れる状況なら取るだろう。履歴から相手を選んで発信し、冷たい機械を耳にあてた。数コール目で電話は繋がった。

「もしもし、青峰か?」

『おー。遠征中までおまえの声聞きたくねえんだけど』

「俺だって別に聞きたくねえよ」

『じゃあさっさと用件言え。どうせ黄瀬だろ』

「分かってんなら単刀直入に言うぞ。今日黄瀬に抱いてほしいって言われた」

『はぁ?』

 面倒くさそうだった声色が一転し、半ば怒鳴ったような疑問の声が聞こえた。耳元で聞くにはやや大きいそれに眉をしかめる。

「言われただけで、俺は何もしてねぇよ」

『ったりめぇだろ』

 当たり前と言いつつ、随分とピリピリした声だ。それは不機嫌そうな顔をしているんだろうなと考えつつ、先を続ける。

「おまえ、黄瀬に処女なんてめんどい、っつったんだって?」

『……覚えてねぇ』

「だろうな、酔ったときっつってたし。けど黄瀬はさ、そんな酔っ払いの戯言だろうが、おまえの言ったことなら真に受けちまうんだよ」

『だから?』

「あんま黄瀬のこと、追い詰めんなよ」

『じゃあ俺にどうしろっつーんだよ! 先に言っとくが、絶対に付き合わねえからな』

 舌打ちと共に、荒れた声が届く。落ち着けよ、と言いたいがそれはかえって神経を逆撫でしてしまうので言わないでおく。

「さすがにそこまで言わねえよ。けど、もうちょい黄瀬の話に耳を傾けてやれよ。つっぱねるんじゃなくてさ。黄瀬にも言えって言っといたが、どうしてそんな風に言うのか、理由含めた考え聞いてやれ」

『……』

「あと黄瀬のこと怒んなよ。もう十分黒子に絞られてっから」

『……考えとく』

 怒りを押し殺した固い声を最後に、通話が切られた。本当に大丈夫だろうかと不安になる。後は青峰を信じるしかない。どの辺をどう、と聞かれれば答えにくい。しいて言うならば、ここまで黄瀬を投げ出さずに育てたことだろうか。黒子も俺も半分以上の確率で音を上げることを想定して、黄瀬をいつでもうちの子供にできるよう用意をしていた。それがいい意味で無駄に終わるとは、十年前の俺は想像もしていなかった。黄瀬が思っているよりずっと、黄瀬は青峰に大事にされている。

 

 

***

 

 

 テレビをつけていない部屋には、時計の秒針の音ばかり響く。部活から居残らず直帰してくるならそろそろ帰っていい時間だ。時間が経てば経つほど、苛立ちが増してしまう。

 携帯を手にしてみても、静かなままだ。三日前の朝から、日頃は五月蝿いくらいの電話やメールがピタリと止まっている。三日前の夜に火神から電話があったから、俺に話が通っていると分かって黙っているのだろう。

 今日だって、俺が遠征から帰ってきた日はいつも出来る限り早く帰ってきて少し豪華な夕飯を作る癖に、全くその気配はない。先延ばしにしたところで俺の機嫌が悪くなるだけで何もいいことはない。かといって、早く帰って来いと言うほど優しくもない。時間と気持ちを持て余すばかりだ。

 

 結局、見計らった時間から一時間近く過ぎて黄瀬は帰ってきた。極力静かに開けられたであろう玄関のドア音を耳にして、俺は寝っ転がっていたソファーから立ち上がった。廊下とリビングの繋がるドアの前に立って待ち構える。

「ただい……ま、っス」

 玄関と同じく静かに開けられたドアから、中を窺うようにそっと黄色い頭が現れた。ドアの前にいる俺を見つけた瞬間、びくりと身体が固くなった。

「遅かったなぁ?」

「先輩と、ワンオンワンして、た……? っス」

「何で疑問形なんだよ」

「ちょっと、話もしてたから」

「あっそ。まあ何でもいいから、こっちこい」

 表情を固くしている黄瀬に指示して、先程まで寝転んでいたソファーに腰をおろした。目の前のラグを指差して座るよう命じれば、自主的に正座をした。俯いて目を合わせようとしない黄瀬の頭のてっぺんが見下ろせる。

「黄瀬、顔あげろ」

 そろそろとあげられた顔の中で、金色の瞳が不安に揺れている。そんな顔するぐらいならあんなことするなと怒鳴りたくなるが、頭の中で火神の言葉を思い出してぐっと堪える。俺も随分優しくなったものだ。

「やっぱり、怒ってるっスよね?」

「怒らせるようなことしたと思ってんのかよ?」

「う……だって火神っちに聞いたんでしょ。黒子っちにもいっぱい怒られたし」

 どうしようもない奴だなと、深い溜息が漏れた。黄瀬の身体がビクリと震える。

「まぁ怒るなって方が無理だよな。けど、俺は怒んねぇ」

「え」

 先に怒らないことを宣言すると、黄瀬はぽかんとした顔になった。間抜けヅラを正面から見据えて、待ち時間に考えていた言葉を紡ぐ。

「散々言ってるように、俺はおまえのことは抱かねえ。けど、それ以外のことなら聞いてやるから、何かあんなら言え。代わりに、おまえも今回みたいに、簡単に誰かに好きにさせようとすんな。俺に言うのもなし。いいな?」

「分かった、っス」

「よし」

 有無を言わせない口調で告げると、すんなり交渉は成立した。黄色い頭をくしゃりと撫でると、ずっと不安に揺らしていた目を眇めた。

「何でもいいんスか?」

「ん?」

「お願い」

「あー、取り敢えず言ってみろよ」

「じゃあキスし」

「ばか」

 どうしてそう学ばないのか。中身が空っぽじゃないのかと疑いたくなる頭をはたく。

「った! 言えっていったのは青峰っちじゃないスか!」

「内容が大して変わってねえんだよ。何か他にあんだろ」

 むっと膨らんだ頬を抓って金色の瞳と目を合わせる。じっと見つめると、先に黄瀬が目を逸らした。やはり、何か隠している顔だ。何かあるという火神の言葉は半信半疑だったが、いま確信に変わる。一体どうやって口を割らせたものか。

 腋に手を差し入れ、それなりに質量のある身体を持ち上げる。されるがままに立ち上がった黄瀬を引き寄せ、膝の上に乗せた。反射的に身体を退こうとするのを許さず、細い腕を痛くない強さで掴んだ。簡単には逃さないという意思表示だ。

「言え。いい加減、くだんねえ言葉で、はぐらかすのやめろ」

 薄い唇が開きかけて、すぐに閉ざされる。僅かに俯いているせいで、制服のシャツの胸元から、リングネックレスの鎖が覗き見えた。この半年間、外しているところを写真以外で見たことがない。

「黄瀬」

「言ったら、青峰っち、呆れるっスよ」

「もう十分呆れてんだよ」

 金色の瞳がちらちらとこちらを窺い見て、少ししてから上目遣いで視線を交えて止まった。ブレザーから覗く手が、ぎゅっとスカートのプリーツを歪める。

「べつに、ムリなら、きかなくていいんスけど……ていうか多分絶対、ムリっス」

 予防線を張る前置きの声は、いつもの明るさがなりを潜めて強張っている。気を抜いたら、今にも泣いてしまいそうだ。

「言われなくても、ムリなことは聞けねえよ。けど、言う前からムリって決めつけんな」

 抱いてほしいよりムリなことはそうそうないだろうに、黄瀬の表情はかたい。決めつけられるのは気に食わなくて、何だってやってやろうじゃないかという気分にさせられる。

「あ、青峰っちが、他の……っ、やっぱなし」

 言いかけた黄瀬の顔がくしゃりと歪んだかと思うと、瞳から水の膜が決壊して、水滴が頬を転がり落ちた。黄瀬は慌てて俯いて、膝の上からおりようと身体を捻った。

「こら、逃げんな」

 振り払われないように腕に力を入れ、湿った頬に手を添えて無理矢理顔を向けさせる。その表情があまりにも辛そうだったから、いま自分は酷いことをしているのだろうと本能的に思った。しかし泣くほどのことを抱えさせたまま逃す気はない。濡れた瞳と真っ直ぐ目を合わせる。

「言え。俺が、何だって?」

「青、峰っちが、他の女……抱くの、やだ……っ」

 しゃくりあげながら言われたお願いは、全く予想しないもので軽く目を見開いた。てっきり何かしてほしい系のお願いをされると思っていたが、しないでと言われるとは。

「青峰っちは、ばれてない……て、思ってるかも、しれな、スけど、家っ、連れ込まなくても、したの、分かるし……分かったら、やっぱ、やだ、し……それなら、俺はっ、女の、代わりなりたい、けど、なれないし……っく」

 涙と言葉が一緒にぽろぽろ零れていく。どうしてあんなにも執拗に、抱いてと強請ってきたのかようやく理解した。俺なんか好きになって、ばかなことばかり言う、ばかなこども。そしていま、それを泣かせているばかは俺なのだ。

「ごめ、なさ……っ」

 何も反応出来ずにいると、黄瀬は謝った。泣くと謝るのは、昔からの癖だ。泣きたいなら謝らずに泣けというのに、ちっともなおらない。泣き止もうと、カーディガンの袖で、ごしごしと目尻をこすっている。

「制服汚れんぞ」

 お願いに対する返事を保留にして、手を伸ばしティッシュの箱を引き寄せた。数枚取って白い手に握らせる。

「でも、さっき、言ったこと、忘れて、ほしっス」

「なんで」

 涙の勢いは随分マシになったが、まだ静かに流れ出ている。不定期に震える上半身を落ち着かせようと、背をゆっくり撫でながら問う。

「おれ、おれのせいで、青峰っちが、なんか我慢するの、もっとやだ……し、こわい、から」

「なにが」

「青峰っちが、おれのこと……じゃま、っておもうの」

 囁くくらいの声量で出てきた言葉に、俺は思わず深い溜息を吐いた。大きく黄瀬の身体が震えたのが、手の平ごしに伝わってきた。

「全く、俺も信用ねえなぁ……おまえまだ、そんなくだんねえ心配してたのかよ。俺は、おまえを母親に引き渡さなかったときから、これでさすがにもうそんなこと考えねえだろと思ってたんだけど?」

 未だにいらなくなったら投げ出すと思われているとは心外だ。自分が思っているほど、こいつには伝わってなかったらしい。これが溜息を吐かずにいられようか。

「ごめんなさいっス……。でも、俺、うざいって自覚あるし」

「おまえ、あんだけ迫っておいて、急に殊勝だな」

 明るさだけが取り柄のようなこいつが、あまりにも弱気で、思わず笑いが零れた。

「っ、なんで笑うんスかぁ……」

「や、つい」

 俺が笑うと、反対に黄瀬の瞳からはぽろぽろと涙が零れる。

「いい加減、泣き止めよ」

「う?……」

 泣かせておいて、泣き止めというのも都合がいい話だ。しかしあちこち赤くなった黄瀬の顔の方が痛ましい。

「お願い、聞いてやるから」

「え」

「聞いてやる」

「で、できない約束は、しちゃいけないんスよ」

「だから、できないって決めつけんなって。……まぁ、もしかしたらそのうち破るかもしんねえけど、取り敢えず聞いてやる」

「なんスかそれぇ……」

 困ってるんだか笑ってるんだかよく分からない、とにかくもうぐちゃぐちゃの顔で、何故かまた黄瀬は泣いた。

「きーせ。だから泣き止めって」

「泣きたくて、泣いてる訳じゃないっス……止め方、わかんないんスよ」

「ったく」

 黄瀬は泣き方も知らなければ、泣き止み方も知らない。背を撫でていた手に力をこめて、肩口に顔が埋まるよう距離を縮めた。今日だけ、特別だ。

「シャツ、汚れちゃうっスよ」

「制服よりマシだろ」

 既に乱れている髪をかき回すと、じわじわ肩が濡れていくのを感じた。多分、力尽きるまで泣き止めないだろう。

 二年ぶりくらいに見た黄瀬の涙は、俺の罪悪感も一緒に侵食する。黄瀬が泣くのはいつも、俺が黄瀬を手放すんじゃないかと不安になったときばかりだ。いくら俺でも、こんなに不器用に泣かれては胸も痛む。

「青峰っち、」

「ん?」

「遠征とか、俺がいないときとか、ばれないようになら、いいっスよ」

「おまえ、そこは素直に全部ヤダって言っとけよ」

 肩が小さく揺れたのは、泣いてるせいじゃない。今日初めて聞く、黄瀬の笑い声だった。背に手がまわされて、二人の距離がピタリと埋まったのには、気づかなかったことにする。

 

 

*

 

 

 泥の中から這い上がるように、ゆっくり意識を取り戻した。重たい頭の中はゆっくりと現実世界を認識し始めたが、目が糊でくっつけられたかのように開かない。頬は引きつるような感じがするし、頭はガンガンして世界が揺れている気がする。ついでに喉も痛い。

 止めどなく泣いて、泣き疲れて眠りについた結果が、この惨状だ。そのうえ夢まで、前回泣いたときの記憶をなぞったものだった。自分のみっともなく泣いた様を思い出して、憂鬱になる。泣くと青峰はいつも宥めてくれようとするが、まるでそれを望んでいるようになるのも嫌だった。俺のお願いを聞いてくれたのだって、きっと俺が泣いていたからだ。絶対に続く筈がない。そう頭で分かっているのに、期待してしまうのも嫌だ。

 ごわつく目元をこすり、なんとか目を開けた。なんとなく分かっていたが、自室でないことを確認する。自分のものではない目覚まし時計を見ると、長針も短針もてっぺんを差そうかという時間だった。朝練を無断欠席したから、さぞかし先輩は怒っていることだろう。夕方の部活はともかく、授業に行く気はもう起こらない。制服のブレザーにカーディガンとスカートは脱がされて、ご丁寧にハンガーにかかっている。どうせ脱がすのも青峰にとっては作業でしかなかっただろうと思うと、悔しくて歯噛みする。

「黄瀬ー?」

 ドアの開く音と共に呼ばれて、咄嗟に枕に顔を埋めた。遠征から帰ってきたばかりの青峰は、今日は一日オフだ。いつもなら喜ぶけど、今日はいて欲しくなかった。

「起きて……んだよ、まだヘソ曲げてんのか?」

「違うっス」

 頭上から降ってくる声に、もごもごと枕に向かって喋る。

「じゃあ起きろよ。どうせもう学校は行かねえだろ? 飯食いに行くぞ」

「やだ……青峰っち一人で行って来ていいっスよ」

「はぁ? なんで」

「……顔、ひどいから。起きたくないっス」

「へー」

 気のない相槌と共に、枕がぐいと引っ張られた。

「ちょっ……!」

 枕を抱き締めて必死に抵抗するが、力で敵うはずがない。ずるずると奪われる。腕でも隠そうとしたが、その腕もあっさり捕まえられた。確実に赤くなっている顔が光にさらされる。

「や、だって……!」

「ぶっ、まじでやばいな」

「だからやだって言ったじゃないスか!」

 遠慮なく吹き出した青峰をあいている手で叩こうとするが、簡単によけられしまう。

「まぁ、どうせ朝にもう見たし」

「ひどいっス!」

「けど昨日の顔の方がぐしゃぐしゃだったぞ」

「わー!」

 耳を塞いで、青峰の言葉が聞こえないフリをする。一刻も早く忘れてほしい記憶だ。当分ネタにされそうだけれど。

「おら、さっさと顔洗ってこい」

 手の平でおでこをぺちんと叩かれた。そのまま出て行こうとする後ろ姿に声をかける。

「青峰っち! お腹減ったっスか? それか外で食べたい?」

「は? 別にどっちもそれほどじゃねえけど」

「じゃあ、俺がご飯作りたいっス!」

 せっかく久しぶりに家に帰って来てくれたのに、まだ青峰に俺のご飯を食べてもらってない。勢いよく提案すると、青峰は口の端で笑った。

「そんなに外出たくねぇの」

「ちが」

「はいはい。早くしろよ」

 言葉に比べて声色は数段優しい。手をひらひらと振って出て行く青峰に、笑顔で敬礼のポーズを作って返事をする。

「了解っス!」

 

 

 

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