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120416 朝露にほころぶ花の気配(伊仙)

 緑は日を増すと共に色合いを深めていた。花のにおいも際立つばかりだ。今日は雲ひとつなく、陽が葉に降り注ぎきらきらと反射している。学園の平穏な日常の中でも特にいい日だ。ただし自分が天才トラパー綾部喜八郎の掘った穴に落ちていることを除けば、だが。
 天気がいいからと言って上ばかり見て歩いていたのがいけなかった。円形に切り取られた空を見上げて、ふうと小さく溜息を吐く。天頂から差し込んでくる陽は温かだが、周囲から伝わってくる湿った土の温度はややひんやりとしている。その差がなんだか心地よくて、吸い込まれるように目を閉じた。

 愛しい人の声が聞こえた気がして、考えるよりも先に目をぱちりと開いた。
「伊作!」
 再び聞こえた声に、やはり幻聴などではなかったと自然と頬が緩んだ。眩しい陽は細身の身体が遮って影が身体に落ちる。重力に従って流れる髪がしなやかで美しい。
「まだそこにいたいのなら私は授業に向かうが」
 身じろぎせずに仙蔵の姿を見つめていたら、冷ややかな声でそう告げられて慌てた。
「ごめん出たいから待って下さい」
 素直にお願いすると、呆れた視線と共に白い手が伸ばされた。迷うことなくその手を掴むと、見た目からは想像のつかない力強さで引き上げられた。
 太陽や影の位置を見るからに、うたた寝していた時間はそう長くなかったらしい。ただしおばちゃんのおいしい昼食を頂くことは出来なさそうだ。
 ぼんやりと考えを巡らせていると、額の上で細い指先が跳ねて、容赦ない痛みに思わず声がもれた。
「まだ寝ているのか?」
「や、そうじゃないけど……でもいま完全に眠気は飛んだよ」
「それはよかった」
 引き上げてもらうときに繋いだ手はまだ離れない。そのままぐいぐいとひっぱられるのに合わせ、足を動かす。
「仙蔵? どこへ行くの?」
 方角的にはぼくが行こうとしていたのと同じ、つまり医務室への道だ。もしかしてどこか怪我をしてぼくを探していたのだろうか。そう考え仙蔵の身体をさっと上から下まで見たが、どこにもそれらしき痕跡は見られない。
「医務室。すりむいただろ」
「え? あ、ほんとだ」
 言われてはじめて、肘がじくじくと痛むことに気がついた。年中不運に見舞われて擦り傷や切り傷が当たり前となった身体は、そこまでひどくない痛みに対する反応が鈍かった。仙蔵の側で完全に気が緩んでいた。
「額の次は頬をはられたいのか」
「つつしんで遠慮させて頂きます」
 あいている手でそっと頬を撫でた。肘にできた傷よりもその方が痛そうだ。

 医務室に着くと、奥の部屋から新野先生が出てきた。しかしぼくの顔をみるなり、じゃあ大丈夫だねとまた奥にひっこんでしまった。
 細々としたことが得意なわりには大雑把な仙蔵の治療に身を預ける。
「どうして同じ手に何度もひっかかるんだ。注意力と警戒心が足りなさすぎる。おまえは決してばかじゃないのに無駄な失敗を繰り返すから評価が下がる。おい、きいているのか!」
「うん、きいてるよ」
 治療と共に降ってくる小言に目をほそめ、緩む口元を抑えないまま返事をする。その反応はどうやらよろしくなかったらしく、綺麗な眉の形が歪んだ。
 大体この前もだな、と続く仙蔵の言葉に、顔の筋肉がどうしても弛緩してしまう。だってそんな些細な事を覚えていてくれるのが嬉しい。記憶力がいいけれど合理的で自分の興味のあることに偏りがちな仙蔵は、どうでもいいことは本当にすぐ忘れてしまう。だからぼくとのやりとりが無意味ではなかったという事実がたまらない。
「伊作、私は怒っているんだが」
「知ってる」
「では何故笑っている」
 何故って、その答えは一つしかない。わかりきっている。そんな簡単なことを聞く仙蔵がおかしくて、ぼくはつい笑い声を零した。仙蔵の眉間の皺がより深くなる。
「もういい、わかった」
 止める隙もなく、仙蔵は医務室を出ていってしまった。仙蔵はおそらく、これっぽっちも、わかってはいない。

 

 喧嘩をしている、という意識はこれっぽっちもなかったのだが、どうも余所から見ると喧嘩に見えるらしい。夕方留三郎と歩いていて六いの二人とすれ違ったとき、仙蔵があからさまにぼくを無視した。それを見ていた文次郎は仙蔵を叱っていたし、留三郎はぼくに和解するよう勧めた。そういうのじゃないんだけどなぁ、ともやもやした気持ちを抑え込んで、確かに早めに解決してしまった方がいいだろうと自分を納得させる。
 二つ隣のい組の部屋からは一人分の気配しかしない。もう一人は今日も鍛錬にいそしんでいるのだろう。声をかけるよりも先に中から声がした。
「入れ」
 こんなときでも命令形なんだなぁと苦笑しつつ、ゆっくりと戸を引いた。きつい目つきでこちらを睨む仙蔵はもう寝着に着替えている。
「おじゃまします……昼間はごめんね」
 仙蔵が口を開くより早く、謝罪の言葉を口にする。仙蔵は不服そうな顔だが、もう怒っているというよりも拗ねているといった方が正しいだろう。
「何故私が怒っているのか分かってるのか」
「ぼくが笑っていたからでしょう? でもそれは、仙蔵の言葉をないがしろにしたわけじゃないよ」
「しかし真摯でもなかった」
「うん。だから謝りにきた。ごめん」
 謝っているにも関わらず、仙蔵はまた眉を潜めた。
「おまえの、そういうところが――」
 言葉は最後まで形をなさなかった。仙蔵がほどいた髪をぐしゃぐしゃと自らの手でかき混ぜる。
「いや、私もすまなかった。きつい言い方をした」
「ふふ、ぼくは気にしてないよ。だって仙蔵は、好きな人にしか怒らないもの」
「それ、自分で言って恥ずかしくないか?」
「ううん、全然」
 はぁっと仙蔵は大袈裟に溜息を吐いてみせた。恥ずかしいのを誤魔化しているのだ。
 夜の気配に紛れてそっと唇を寄せる。仙蔵は拒まなかった。これが彼の正しい答えだと、ぼくは知っている。
 あつい夜がほころべば穏やかな朝がくるだろう。

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