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110504 夜明けはそこに横たわる(伊仙)

 戸が開かれたことに気づいたのは、音でも気配でもなく、桜の花びらが舞い込んできたからだった。
「おかえり。くノ一かと思った」
 戸の方を見やれば、そこには女性――の格好をした仙蔵が立っていた。こんなに見事に気配を消すことができる人物なんてそうそういないから、くノ一ではないだろうと分かっていた。それでもその美しさだけならくノ一にも勝るとも劣らないだろう。しかも月明かりを背負うことで、常よりいっそうの妖しさをはらんでいた。
「世辞を言わなくてもいいぞ」
「ほんとのことだよ」
 自分でもそれなりの自信をもち、自らの力量も正確に把握しているくせに、ぼくが褒めても何故か素直に受け取ってもらえない。いつものことではあるが、その頑なともいえる態度に苦笑がもれる。
 座布団をすすめたら、仙蔵は市女笠を外して優雅な動作でそこに座った。普段から仙蔵の所作は美しいが、女装をしているときは日頃とはまた一味ちがう。
「どこか怪我でもしたの?」
「怪我をしていないと来てはいけないのか」
「そういう意味じゃないよ。でもここは医務室なわけだし、一応は聞いておくべきかと思って」
 どうもピリピリしているらしい仙蔵に対して笑って答えると、鋭い目つきで睨まれた。今夜も理不尽だ。
「伊作、」
 苛立ちを含んだ、それでいて情感たっぷりの声で名前を呼ばれた。仙蔵は正座の足を少しだけ崩して、小首を傾げてじっとぼくを見ている。もう先ほどのような鋭い目つきじゃなくて、誰かを陥落させるときのそれだ。
「誘ってる?」
 相変わらず役者だなあと妙に感心しながらも、仙蔵がその気ならのってあげてもいいいと思う。透き通るほど白い肌の中、僅かに桜色の差す頬に手をのばしたら、ぼくの方に傾けられていた身体が元に戻っていってしまった。まるで夏の逃げ水だ。
「別にそういうわけでは……」
「いま自分がどんな顔してるか分かってる?」
 今度こそ頬に触れて、視線を交差させながらゆっくり顔を近づけた。仙蔵の伏せられた長い睫毛が灯火をうけて揺らめいている。唇が触れ合う寸前で、仙蔵の迷いをくんでそっと離れた。その気配に気づいた仙蔵が瞼を開ける。どこが安堵したような、それでいて少し不満そうな瞳だった。
「何故やめる」
「何故ってそりゃ……仙蔵、あのさ、前から言いたかったんだけど」
「なんだ」
「気持ちいいことは罪じゃないよ?」
 色に溺れるのはまた別だけど、と小さな声で一応注釈はつけておく。仙蔵は何も言葉を発さなかったが、その瞳の奥が揺らいだのを見逃さなかった。
 その実力は学園一ともうたわれる彼が、一体何にそんなに恐れをなしているのかが前々から不思議だった。快楽に溺れることに恐怖を感じているのか、それとも――。
 曲がりなりにも互いに想いを通わしていて、求めてくるくせに、それに応えようとすれば離れようとする。最初は柄にもなく照れているのかとも思ったが、どうやら違うようだ。
「ねえ、何をおそれているの?」
 視線を外さないまま、更に一歩踏み込む。先に逸らしたのは仙蔵だった。かわりに赤く彩られた唇が開く。
「おそれている、つもりはない。けれどおまえの愛しむ手が私に触れる度に、その幸福をどうしていいのか分からなくなる」
「でもそれが欲しくてここに来たんじゃないの?」
 高く評価されている己の手を、仙蔵の手に重ねる。仙蔵は躊躇いながらも指を絡めてきた。
「それにも関わらず、だ」
「きみは、その手――その力が、誰かを傷付けるものだと思っているかもしれないけど、そうじゃなくて誰かをまもるものだよ」
 繋いだ手を見つめながら、一番相応しい言葉を探して話す。仙蔵はぼくの手をいつくしむ手や助ける手として評価するけれど、ぼくからみれば仙蔵だってまもる手で助ける手だ。でも互いに役割は違って、ぼくは仙蔵のもっているものが少しだけ羨ましい。ある種の憧れ、といえば聞こえはいいが、つまるところのないものねだりだ。それはきっと仙蔵も少なからず同じことを思っているだろう。しかしぼくらは、それがないものねだりであることを正確に理解しているから、一緒にいられる。だから、大丈夫。

「桜がついてるよ」
 仙蔵の長い髪の先についていた桜の花びらをすくいとる。視線が絡まって、夜の闇より深い漆黒の瞳がもう揺れていないことを確認した。夜明けはもうすぐそこまで迫ってきているけれど、残された時を少しくらい堪能しても許されるだろう。

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